新しい時代の幕開けだ。

これからどうしたって、生きていく上で重要に成る。

それは生きていく上で、人間らしさを失わないための考えだ。

人間というものは、そうしたごくありふれた存在でしかない。

しかし、静から動へ行動を移すことの大事さを知る。

人間の道徳心というものが、これから先、ずっと続く手法だということは、存外、わからなくなりつつある時代である。

それは、ロボットが器用になって、人間となんら変わらない知性を宿すようになりつつあることと無関係ではない。

きっと、人類は、ある時点で、人間本来の姿が、もっとも美しいという時代が、唯一正しいことだということをただの錯覚だったということに気づく。

それは、ある意味で人間らしく生きることの大義名分を失わせることになろう。

人間は、サイボーグ化する。はたまたそれ以上の存在とも成り得る。

しかし、そうした最も理想的で、最高の安全を手に入れた時、人は人ではなく成る。

人間として長年培われてきた社会という秩序は、何ら意味を持たなく成る。

まさに諸刃の剣。

神様のように安心安全を手に入れたいと願う一方で、いままで守り続けてきた秩序をすべて捨て去らなければならない。否、捨てることができる存在になるといった方が正しい。

しかし、そうしたすごい存在になろうとするためには、まだあと四半世紀は必要となる。

しかし、人類の長い歴史の時間からすれば、わずか四半世紀でなにもかも、人類の歴史を一変させる。人類は神の力を手にする。否、神のように自由自在を手にする。

この自由自在は、全てを制御し、全てを可能にする技術を手に入れるということだ。

そうなると、全てが融合されてしまい、全てを区別できなくなる。

問題は、区別せざるを得ないからという現代の時代から、全てを区別する必要がなくなる高度な技術を手に入れた時代とに分けられるということだ。

この高度な技術は、人類が長年培ってきた発見、発明の研究を人工知能が超高速で処理してこなしてしまうことでいよいよ、神様の領域に達するような技術を手に入れられるという寸法だ。

最適化ということだろう。

自然界が作り出した自然の流れで融合させる力を持った。

人間はそれをさらに手先の器用さでより一段、上の世界を見出した。

そして、それは最適化ということでこの自然の世界を劇的にかつ、急激に変える力を手にした。

そして、その急激にかつ、劇的に変化させる技術は、最適化によって、発見、発明がなされてきたのである。

人類は恐ろしく世界を大きくしつつある。

急激な変化によって、新たな文化が生まれ、それを楽しむ期間を人類は得てきた。

しかし、その楽しむ期間さえも失うほど、短時間のうちに発見、発明がなされ、次々と新たな新商品が生み出されてくることだろう。

そうなった時、人類はもはや恵まれすぎる世界の前にただただ、楽しむだけの生き方しかできなくなる。

贅沢で喜ばしい世界ではあるが、ある意味でもはや後戻りのできない自由な世界が広がり、もはや人類は、死さえも恐れなく成ることだろう。

死んだ人間をいとも簡単に、健康体に蘇らせることさえ可能となる。

そうなった時、果たして、人類に未来はあるのだろうか?

自由な時間が有り余ってしまい、人々は自由気ままな生き方ばかりを模索するように成る。

仕方なく生きるという生活が撲滅されてしまうからだ。

なんでも好きにやれるよという時代をどう思うのか。

問題は、発展する速度は速いのか遅いのかということが俄然、判断が難しい。

液晶モニタはあっというまに広まった。スマホも速い方だろう。

いままで自分のコンピュータは無いに等しい生活を送っていた人々が、スマホを簡単に手にする時代となった。液晶画面が浸透し、コンピュータもスマホを通して、確実に普及した。

となると、ロボットや自動運転車も、瞬く間に浸透し、普及することだろう。

問題は、それがなかなか世の中に実用化して出てこないことにある。

スマホは世の中に出て、わずか5年で普及した。

10年を待たずして8年ほどで、高性能化した。

10年を過ぎ11年ほどでは、圧倒的な性能を見せ始めている。

カメラ、通信速度において、人類は、いままで経験をしたことがないほどの大量の写真や動画を記録している。

そして、その情報はすべてクラウド上に保存され、永遠に記録を留めることになる。

もはや人類は新たな時代を迎えつつある。

しかし、そうした最新技術によって、新しい世界が開かれようとしているのを知っていながら、それが実用化され、普及するまで恩恵を受けられないのは、なんとももどかしいものである。

そうした技術ができれば、人間は生活をいままでとは違ったものにすることができる。

より便利で、快適な生活が約束されるのだ。

それは、お金持ちのような快適な生活を、一般庶民も気軽に楽しめるように成るということだ。

自動運転車ができれば、その目安もはっきりとすることだろう。

自動運転車は、自動化の第一歩となろう。

人間活動を解析し、危険を察知して、回避するという判断を人工知能が成し遂げれば、ロボットが人間社会に入っていくのも楽になろう。

IoTの技術が至る所で使用されることだろう。無線技術の発達だけではない。全固体電池と無接点充電の技術があれば、電源の配線いらずで、長期間、充電いらずでIoT機器を至る所に設置できるようになる。

これは人間で言えば、全身に張り巡らされた毛細血管のようなものが、物理世界に張り巡らされることを意味する。

いままで以上に監視される社会が到来することも確かだが、それ以上に自由に移動することができる存在に人間はなることの方が、より大きいだろう。

自由に移動することは、人間に大きな生きる可能性を与えることになる。

移動することの自由はたしかにいままでの現代社会においても実現してきた。

しかし、その行動範囲は、常に制約されたものであった。

その制約を限りなく取り除くことが、よりよい自由による幸福を人々に与える社会となろう。

考えてみると、人類が自由自在に物理世界を扱える世界を作ったのは、モニタ画面であろう。あらゆるものを平面の画面に映し出し、映像化し、人が自然に眺め見て楽しむことができるようにした大発明である。

据え置き型の大画面だけでなく、スマホという手のひらサイズに収まるモニタ画面を生活のあらゆる場面でフル活用する時代となったことは、大きな飛躍であったと言える。

人間が最も重要な世界とするのが視覚だ。その視覚の情報をモニタ画面によって、色鮮やかに精細に表示することで人間を正しい判断、行動を起こす基準にする。こうした自由自在の映像の世界を作り出した時点で、人類が歩むべき道は方向が定まったと言える。

すなわち、現実の世界を自由自在に制御するという技術を人類は手にすべく活動し、目指しているということを。

自動運転車が一般的に普及をし始めるのは、2025年頃とされている。

しかし、技術が熟成されたものであれば、普及の年度は飛躍的に早まる。2023年ごろには、早くも主流と成り得る。

それは、運転を人工知能が代行してくれるという利便性が大きな需要となって、市場を独占するようになるからだ。