昨今、ひきこもり問題が、話題となっている。

8050問題という年齢的限界点に達してきているひきこもり当事者とその家族。

この問題について、政府は対策を迫られることとなる。

ひきこもり問題の大きな点は、どこにあるのか?

ひきこもりに至る経過は、自然な流れのようであり、長期に長引けば長引くほど、問題は深刻化する。

ひきこもりはなぜ長期化したか? 池上正樹さんに聞く、ひきこもりの実態

https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/179/

社会がひきこもらせているという専門家の見解は、かなり的を射た見解のように思う。これはある意味で未だに野蛮さが残る弱肉強食の世界の圧力が人を駄目にしたという見方が取れる。

ただ、ひきこもり者がどのような日々を送っているのかということを分析すると、社会で仕事をバリバリこなす人間との間に大きな差があることがわかる。

それは生産性である。

社会人となり、仕事をこなす人間は、会社目線で言えば、どれだけ生産能力をこの人は持っているだろうか?ということに着目する。

すなわち、現代社会は、仕事をして労働をこなし、一定の成果を上げ、何かしらの成果物、生産物を作り出して、社会に貢献している存在なのだということだ。

この点について、ひきこもり者は、残念ながら、成果物、生産物を作り出していない。社会に貢献していない存在ということである。

乱暴な言い方ではあるが、普通の社会人は、労働を社会に提供して、社会に貢献する生き方を取っているからこそ、日々の収益を得て、日々の生活をし、独立をしているのである。

ひきこもり者は、この点において、まったく真逆の生き方をしている。だからこそ、大きな問題と認識されるのである。すなわち、独立していない。たくましさがない。弱い。社会にまったく貢献していない。という生き方をしているからこそ、人間として正しい生き方をしていないのではないのか?

そうした普通の労働者としての生き方をできないということは、現代社会において、間違った生き方をしているのではないのか?ということだ。

ひきこもり者が長い時間の間にどのような生産物を成したのかという点では、ゲームをした、テレビを見たという何も残らないことばかりをしていることに気づく。何も残らないことをしている人間は、現代社会において、まったく求められていないということだ。仕事の間は、強制的に何かを生産していかなければならないため、たまの休日は、何もしないでテレビやゲームをしてのらりくらりした時間を過ごすというのは、休息するという意味では、よい方法だ。

しかし、ひきこもり者は、そうした何もしないという時間があまりにも長過ぎる。ゆえに、現代社会が、特に資本家から労働者の身分はあくせく働いてこそ、存在価値を見出すことができるのだという論理になる。

すなわち、正しい生き方は、程よい労働と休息が交互に日々行われる営みにあるということだ。ひきこもり者は、こうした人のまっとうな生き方を踏襲することができない存在となっている。

では、なぜ、そうしたことができないのか?それは精神的な面で、過敏すぎる、精神が弱い、忍耐強さがない、目的意識がない、成し遂げようという強い意志がないといったさまざまな点が上げられる。

自分に鞭打って、社会の激闘に自ら飛び込む勇気がないのだ。自分を痛めつけ、鍛え抜き、我が身の強さによって、世界は変えられるという大望がないために、引っ込み思案で、無計画な生き方に陥るのだ。

日がな一日、テレビをみる、ゲームをやり続けるという行為は、こうした社会に出て、自分なりに開拓して、よりよく統制していくために貢献する存在になろうという姿勢から逃げている。無責任にも、社会がどうなろうと関係ないと背を向け、我が身保身に走っているだけである。

病気だ、弱い気力だからと弱音を吐いて、負け者、敗者となって、グダグダと言い訳で自分を言い繕って、テレビを見て、羨ましがり、ゲームをやっては、何も残らない無駄な時間を過ごす。

こうした行動を取るのは、現代までを連綿と築いてきた歴史を歩んできたご先祖様に対して、裏切り行為をしているのではなかろうか。

昔は血を吐き、泥沼を這いずり回って生きてきた人々が、懸命に生きるために、労働してきた努力の上に、自分たちが現代に生を受けているという感覚をまったく感じていないのだ。感謝する気持ちを忘れ、我が身大事さあまりに傷つきたくない一心で、社会から背を向け、家に閉じこもる行為は、人として失格ではないのか。

生きたくても生きられなかった人たちが大昔にどれほど多くいたことか。

現代社会は、なんでも好きなものを食べられる、清潔な衣食住が可能となっている。そうしたことに感謝をして、労働に勤しむならば、ひきこもりなど、ファンタジーの世界の話だと気づくことだろう。

人はなんのために生きているのか?それは誰にもわからない。

しかし、そうした不明点に大義名分を無理やりこじつけてでも、我が身の労働に大きな意義をもたせ、傲慢に生きるくらいの図太い姿勢が必要ではなかろうか?

ひきこもり者は、とかく、勉強不足である。

勉強をすれば、自ずと、我が身が行うべき道、高い崇高な思想が身につき、行動に現れるはずだ。ひきこもりをして、経済不利益をこうむったままの負け犬の状態でいることにすぐに気づくはずだ。

勉強をすれば、我が身が次に進むべきは、経済的利益を得て、我が身の独立を確立し、さらに資産を増やし、自分なりの強さを打ち立てる。

小さな世界に閉じこもり、世間を知ったかぶり、侮り、自分の能力を過信し、まったく実体験の経験を持たぬまま、何を持って、社会は駄目だ駄目だと批判するのか。

現実世界に出て、実際に仕事を通して世間の厳しさを知り、それでも自分なりに実体験から得た知恵を生かして、たくましく生きていくことこそ、真の人間という存在の行動ではなかろうか。

小さな視点ばかりに立たず、もっと俯瞰して、大きな視点に立って、人を凌駕する人物になるのだ!という強い大志を抱き生きていくべきであろう。